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 私は、先の東京都議会議員選挙におきまして七期連続しての議席を頂くことが出来ました。ここに改めて御礼申し上げますとともに、その責任の重さをかみしめ、都政発展の為に戦って参ります。
 都議会議員だからと言って都政との関わりのみが仕事ではありません。政治と言っても「生活そのもの」であります。故にわが同志区議会議員団と共に荒川区発展の為に全ての分野での課題解決のために働いてまいります。
 区で出来なければ都で、都で出来なければ国で、というように公明党の持ち前の「ネットワーク力」で課題の解決に取り組んでまいります。

 私には過去6万件もの都・区民相談をして参りました。それもこれも一人の為にをモットーに全力で戦ってきたからであります。選挙後も毎日のように多くの 相談事が電話で、FAXで、メールで、なかには街なかで「貫太郎さん ちょっと相談に乗って!」などと気軽に声をかけてくださる方も多くいらっしゃいま す。

 嗚呼!こんなに信頼されているんだなと……。身の引き締まる毎日です。
丁寧に、親切に、よく聞いて差し上げながらの毎日であります。
今後とも皆様方からのご指導の程、よろしくお願い申し上げ挨拶と致します。


 
鈴木かんたろう

PROFILE




昭和 19 年 1 月 15 日生   荒川区町屋在住   中央大学法学部法律学科卒業

公明党 都議会議員










宮城県石巻市で誕生。幼少期は千葉県富浦町(現・南房総市)で育つ。


父親の仕事の影響で転勤が多く、小・中・高時代は北海道・茨城・熊本と全国各地を転々。


公明新聞記者として15年間活躍後、荒川区議2期を経て、平成元年に東京都議会議員に初当選。
現在、都議会議員7期・都議会公明党顧問。

元東京都議会副議長・元東京都監査委員。

公明党中央規律委員・都本部副代表・荒川総支部長。




ヒストリー


0歳(昭和19年1月〜)
■次男なのにかんたろう!?
鈴木かんたろうは、昭和19年1月15日、3人兄弟の次男として宮城県石巻市で誕生する。
幼少期は太平洋を望む千葉県富浦町=現・南房総市=で育つ。千葉県出身で、当時軍人だった父親が、郷土出身の宰相(さいしょう)・鈴木貫太郎にあやかり命名。
実家の屋号が「ヤマハチ」であることから、近所では「ハチベエのせがれ」と呼ばれ、とてもかわいがられた。

6歳〜(昭和25年4月〜)
■12歳 6つの小学校を転々
転勤が多い父親の影響で小学校を転々とし、千葉県の安房鴨川小学校、富浦小学校、衣笠小学校、茨城県の中根小学校、北海道の恵庭小学校で過ごした後、再び茨城に戻って古河第一小学校で卒業式を迎える。

■夢は機関車の運転士
千葉の海では兄弟で伊勢エビやアワビ、サザエ採りに夢中。
極寒の北海道では雪降る中、「すずらん狩り」をして遊んだ。
遊び疲れて帰ると、母親が用意してくれた温かいおやつが待っていた。
小さな胸に抱いた将来の夢は、機関車の運転士。
遠く響く汽笛の音に、未来への思いをはせた。

13歳〜17歳 (昭和31年4月〜)
■勉強漬けの日々
古河第一中学校へ入学し、勉学で頭角(とうかく)を現す。
高校は越境(えっきょう)して栃木高校に進学。
成績は優秀で、周囲からは「まじめで実直な生徒」と評判だった。
高校2年の終わりには進学校として名高い九州の名門・熊本高校に転校し、勉強漬けの日々を送る。

18歳 (昭和37年4月〜)
■中央大学法学部に入学
弁護士だった叔父の影響で、法曹(ほうそう)を志す。
当時、司法試験に最も多くの合格者を輩出していた中央大学法学部法律学科を受験し合格。憲法学者の橋本公亘(はしもときみのぶ)氏に影響を受ける。
時は学生運動真っ盛り。入学当初は、大学の至る所で学生と警察がぶつかっているようなありさまだった。
授業はロックアウト=封鎖=、学習するには自ら机に向かうしかない――。 そういった経験を通し、社会を”良くも悪くも”リードする政治に対し、強い関心を抱く。

■下宿先は、荒川区町屋
父親のつてをたどり、荒川区町屋に下宿。
寝食を共にする同世代の友人たちと、談論風発の日々を送る。
「21世紀は人間の世紀」との言葉に感銘を受け、「皆が笑顔で過ごせる社会を築いていきたい」と心に誓う。

21歳 (昭和40年)
■人生で初めての挫折
アルバイトをしながらひたすら司法試験の勉強に取り組むも、結果は不合格。
浪人して受験を続ける経済的な余裕がなく、弁護士の夢を断念。
本人曰(いわ)く「人生で初めての大きな挫折」を味わう。

22歳〜 (昭和42年〜)
■全国を飛び回った記者時代
中央大学法学部法律学科を卒業後、公明新聞社に入社。
政治部や地方部では記者として全国を飛び回り、紙面レイアウトや印刷工場の業務にも携わる。連日連夜の激務に、家へ帰れない日々も……。
激闘の20〜30代は、先輩から教わった言葉「1にも確認、2にも確認、3にも確認、とにかく確認!」をモットーに、持ち前のバイタリティーで責任ある言論戦を展開。約15年にわたって健筆をふるう。

39歳 (昭和59年)
■荒川区議会議員に
昭和58年、荒川区議会議員選挙へ出馬し見事に初当選。
区民の味方として、地域密着で問題解決に奔走する一方、議会では経費削減の追及に大暴れ。
「ムダ」の多い区役所・公共施設の電気代契約を見直し、大幅な値下げを断行した。

■舞台は都政へ――
区議会議員を2期6年間務めた後、平成元年、東京都議会議員選挙に出馬し当選する。
初の質問に立った鈴木かんたろうは冒頭、「旭電化跡地の『地域住民の意向を生かした』整備」を熱烈に訴える。
東京都の重要な再開発地域として旭電化跡地(現在の尾久の原公園一帯)が注目を浴びていた時期。
地域の青年からの要望である「結婚世代の若者が安心して住めるような住宅を」との声を背に、若年ファミリー向け住宅「ヤングピア」建設を強く主張、着工への道すじを開いた。

■トリアージ・タッグ導入を推進
平成7年の阪神・淡路大震災をきっかけに、大災害やテロ発生時に、一人でも多くの人命を救助できる医療体制整備の必要性を痛感する。
タッグの色で治療の優先度を決定するトリアージ・タッグを強く推進した結果、全国に先駆けての導入を東京都が決定した。

■女性専門外来を開設
女性専門外来の開設を目指し、平成19年10月に署名を開始。
呼びかけに応じた約8万の署名が実を結び、JR日暮里駅前の東京女子医科大学・東医療センター「日暮里クリニック」内に女性専門外来が誕生した。
専門の女性医師ならではの診療が好評を博している。

■青年の夢・実現に全力
東京都立航空工業高等専門学校(現・都立産業技術高専)の生徒が、手作りの人工衛星をロケットで打ち上げたいという夢を持っていると知り、都議会で応援を呼びかける。
地元企業からの支援体制も万全に整え、平成20年1月、H2Aロケットに相乗りする形で人工衛星「輝汐(きせき)」が宇宙に飛び立った。
中学校道徳の副読本にも「輝汐が起こした奇跡」として掲載されるなど、地域と協力して夢を実現するまでのエピソードが話題を呼んだ。

■愛する家族とともに
昭和44年、下宿先の近所に住み、しょっちゅう顔を合わせていた悦子さんと、「自然な成り行き」で結婚。
頑健な身体を持つ父親のDNAを受け継いだ2人の子ども(1女1男)を、夫婦、同居の義父母とともに協力し、立派に育て上げる。





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